1862年、肥後国八代に武士階級の子として生まれた亀山は、熊本洋学校でアメリカ人教師L.L.ジェーンズの感化を受けて、15才にして「花岡山」の誓いに加わった。35名の若者が、そこでキリスト教をもって「人民の蒙昧を開く」旨の誓約を行ったのである。後に同志社英学校に入学したこの一群を称して「熊本バンド」というが、海老名弾正や徳富蘇峯らを含むこの信仰連帯集団において亀山は最年少であった。
同志社では校祖新島襄の人格に深い感化を受け、1884年にこれを卒業した後は、在学中からの伝道地であった倉敷に天城教会を設立し仮牧師を務めている。その後、1886年、沢山保羅(日本で始めて按手を受け牧師となった人物。対して新島襄はアメリカで按手を受けた宣教師であった。浪花教会創設者にして初代牧師。また梅花女学校の創設者としても知られている)辞任後の浪花教会で仮牧師に就任、教会を牧しつつも、同教会による枚方などでの伝道活動に参加する。翌年に安田サイと青年会館(大阪YMCA)で結婚するが、その翌朝には沢山保羅の死の知らせが教会を襲い、その後も自身の病といった試練の時を経て、彼は1889年4月に浪花教会を辞任している。そして1890年、大津教会設立にあたり按手礼を受けて彼は牧師となり、大津を拠点としつつも、長浜、彦根、綾部などで伝道活動を行ったのであった。
▼ 伝道と転向
大津教会での亀山牧師を巡るエピソードとしては「ひげそり事件」が記録されている。若者たちが熱心の余り、亀山牧師の髭が貴族的であると勧告したのである。亀山牧師はこの勧告を深く省みて、かりそめにも信徒を躓かせてはならないと、その美髭をすっかりそり落とされた。この事件は当時の教師の間に広まり、大津教会の熱心さを伝えるところとなったという。
浪花教会から独立した堂島教会から請われたのであろうか、牧師就任後1年後を待たず、亀山牧師は大津教会を山田兵助に任せて、堂島教会に転任している。1年ほどこれを牧した後、彼は再びそこを離れ、岡山を始め各地での伝道に従事していったが、1896年、この年に浪花教会から独立した尼崎教会に転入している。しかし翌年には妻を喪い、1898年には伝道界を去って教育界に移る決意を固めたのであった。
同志社卒業から転向までの14年の歩みを振り返るならば、彼はひとところで羊を牧する牧者というよりは、各地に福音の種蒔く伝道者であったといえる。大津の若者という良き土壌に蒔かれたその種が、やがて根を張り、今日の私たち大津教会のルーツとなったのである。
伝道界を去った亀山は、1899年に教職にあった小島こうと再婚し、その後も夫婦共に教育者としての歩みを重ねたという。奈良県立郡山中学を始め各地で教えたが、大阪府立梅田高等女学校在勤中の1914年、尼崎町立実業補修学校が創設されるにおよんで、彼は招かれて校長となりここに落ち着いた。また、1943年に80才で没するまで、尼崎教会員として家族をあげて歴代の牧師を助け、教会の発展に寄与したと伝えられている。「わたしは名のとおり、亀が山に登るようにしか進めない。スロウ・アンド・ステディだ」と彼はその生を回顧している。
彼の教育界への転向の真意はわからない。しかしそこには、当時の組合教会を覆っていた国家主義の影が見え隠れする。日清戦争から日露戦争へと進み行く時代、熊本バンドの俊才たちは講壇から「皇国日本のキリスト教」を説き、戦意向上のために熱弁をふるった。亀山もまた日清戦争を支持してはいたが、内村鑑三のごとくに、日露戦争へと進み行く日本の歩みに疑問を覚えたのではあるまいか。彼は講壇から「露国討つべし」と語る道を選ばず、教育者として神と人に仕える生き方を選んだのだとその転向の意を解釈するのは、大津教会から旅立ったもう一人の亀、亀田正己牧師である。