ウィリアム・メレル・ヴォーリズにより設計された大津教会の会堂は、1928年に竣工し、献堂されました。以下は、建設のための募金趣意書に記載された完成予想図です。ここではその会堂、「大津同胞會舘」についてご案内いたします。
▼ 大津同胞會館の建設
現在の会堂が献堂されたのは1928年11月である。大津教会は同胞教会をその前進の一つとするが、献堂前は下百石町36番地にあった。山村弁護士宅を借りたもので、板塀をめぐらし、大きな土蔵もあってお寺のような邸宅だったという(教会を降って最初の四つ角の東北角)。
ついでながら大津同胞教会は1905年に創立され、神出(三井寺下)、上栄町、上北国町、上百石町といずれも借家を転々とし、1918年4月に下百石町に移ってきた。
同年、矢部喜好牧師が膳所同胞教会と共に大津を兼牧し、同時に愛光幼稚園を開設した(正式な県の認可は1922年)。注目すべきはこの1918年から会堂建設の準備に着手し、40人前後の教会員が積立を開始したことである。8年後の1926年現在地345坪を11,000円余で購入した。
更にその2年後、建築費24,000円余でもって大津同胞会館の竣工は成った。その内訳は積立金9,000円、教会員の更なる献金4,000円、日本基督同胞教会本部の補助金7,000円、一般からの寄付金(矢部牧師と市長が発起人)4,000円だった。膳所教会の応援も大きかっただろう。
▼ 会堂に託された想い
「教会」とせず「会館」としたのは、広く市民に開放しようという矢部牧師や教会員の願いがあったと思われる。事実、愛光幼稚園のほか、1922年には正規の中学校教育を受けられない人々のために夜間の湖南文化学校を開設し、国語、漢文、英語、数学、地理、簿記などを教えていた。1928年当時50人の生徒が在籍していた。そのほか文化講演会、公開講座、音楽会、映写会などを行い、地域と結びつくことを強く意識していた。
当時の教会員の並々ならぬ決意と情熱、また祈りが思いやられる。私たちはその決意と情熱の結果を今に至るも享受しているし、代々にわたり大修繕小修繕を繰り返し、その維持発展に努めて未だ信仰の先達たちのこの教会に寄せる熱い思いを引き継いでもいる。
特に戦中・敗戦直後の教会迫害の時代、教会の内部までもが荒らされ管理人が逃げ出す程だった。中村牧師一家は当時梅林にあった牧師館(借家)を捨て、現在の談話室、印刷室などに不自由をしのびつつ自ら教会の保全に当たられたことは記憶しておいてよいだろう。
▼ 次の世代へ
建築時と現在との最大の違いは、礼拝堂と幼稚園の間のドアがなくなり、礼拝堂正面が改修されたことである。このドアを取り払うと幼稚園ホールと一体となり即席の舞台が出来上がる。その上で2階のギャラリー三方からも見物できるという仕掛けである。
設計はヴォーリズ建築設計事務所、施工は石倉工務店。大津組合教会の会員であった石倉善四郎さんの手になる。
1983年1月、日本建築学会から大津教会は貴重な建築であるとの通知があった。その理由は次の4点である。1.姿形がよい。2.すぐれた建築家の設計である。3.特色ある景観を構成している。4.時代の建築様式を表している。
「時代の建築様式」とは何だろうか──。明治以降の建築史は普通5期に分けられるが、当会堂は第3期「両大戦間における折衷主義の時期」にあたり、東西文化の「折衷」でありながら日本独特の建築を追求した時期とされている。
私たちはこの会堂を次世代に引き継いでいく使命を負っているものと思う。