▼ 非戦論者、矢部喜好
矢部牧師について『岩波キリスト教事典』(2002年)には次のようにある。
「矢部喜好(1884-1935)、牧師で非戦論者。福島県生まれ。会津中学時代にキリスト教の末世福音教会に入信。退学して伝道中、日露戦争で召集を受けるが、人を殺す戦争には参加できないこと、平和は戦争による方法ではもたらされないことを理由に拒否。逮捕され禁固刑に付された。日本最初の良心的兵役拒否の主張者とみなされる。アメリカ留学後、同胞教会に転じ、帰国後は同派の教師として、滋賀県の膳所同胞教会の設立を始め、琵琶湖周辺で伝道。また21年にはフィリピンのマニラに日本人教会を設立した。非戦・平和論者として一生をつらぬくとともに、児童の宗教教育のため日曜学校の普及につくした」。
以上の記述でほぼ尽きているのであるが、大津同胞教会と矢部牧師を中心に記録しておく。
▼ 湖畔伝道への召命
オハイオ州ディトン市、1907年、矢部はある銀行家のハウスボーイをしながら勉学していたが、週給4ドルでは古本しか買えず、その古本に潜んでいた病原菌に感染、猩紅熱にかかった。セント・エリザベス病院に入院、生死の境をさまよったが、約1か月後の12月中旬、まだ面会謝絶のある日、隣室からエドガー・ニップが話しかけた。「日本の琵琶湖畔に開拓伝道者として遣わされたモンロー・クリセリウス君が、君と同じ猩紅熱にかかり大津で客死した」。
進むべき道に神の示しを求めていた矢部は、ここに琵琶湖畔の伝道に一生を捧げる決心をし、次のように祈った。「もし全く癒されて祖国教化のために帰朝する日あらば、願わくば彼がなさんとして果たし得ざりし琵琶湖畔の聖なる御事業に余の全生涯をば用いてください」。ニップは1900年ベネ夫人とともに来日、京都に住み同志社で教鞭をとりつつ京都同胞教会の建設などに力を尽くしたが、この時はアメリカに帰国、同胞教会外国伝道部教育部長の地位にあった。この出会いが、矢部をして同胞教会に転じさせることとなる。
1909年オハイオ州オッターバイン大学に入学。卒業後シカゴ大学神学部に入学、1914年卒業。高校から足掛け10年の留学生活を終え、湖畔伝道の幻を得て帰国の途についた。再び日本で働くとの決意のもと、ニップ夫妻が矢部に同道していた。
▼ 開拓伝道
帰国後、2か月余りの原宿同胞教会での準備と山田春(しゅん)との結婚。そして1915年6月、クリセリウスの遺志をついで、琵琶湖畔を目指して西下、ひとまずニップの京都宅に落ちついた。2人で実地調査などを行い、膳所を選んだ。住所兼伝道所として西村金吾宅を借り受け、7月4日福音伝道の第一声をあげた。矢部31歳の誕生日であった。
1年後、最初の洗礼式が行われたが、受洗者は日曜学校の生徒の中からであった。この時、膳所同胞教会が発足した。日曜学校には毎週100人近くが出席し、また幼稚園は申込者40人に対して借家では対応しきれず、午前午後の2部制で行なった。これらの不便のため会堂建築を志したが、たまたま売りに出た寿座という芝居小屋を買い、これを改造して献堂した。1918年3月のことであり、伝道を開始して満3年にはなっていなかった。
この間の苦闘については、残念ながら全て省略する。ただ、矢部が基本に据えたのが日曜学校であったことは記憶したい。当時町の人々はキリスト教に全く関心がないか危険視した。しかし子ども達は楽しんで日曜学校に集まった。まだ珍しかったオルガンや春夫人の歌声、紙芝居、幻灯、聖書の物語などは子ども達に大きな魅力であった。
▼ 大津兼牧と活動の広がり
矢部はこの年の4月から、大津同胞教会を兼牧することになった。日曜は朝9時半から大津で礼拝をし、終わるやいなや膳所へ自転車を飛ばし、11時から膳所で礼拝をした。11時では遅すぎるという意見があったのか、膳所の礼拝は夏も冬も早朝5時半から聞かれていた時期もある。日曜礼拝のほか土曜と日曜には夜の集会、水曜木曜は祈祷会と何もかも2回ずつあり、毎火曜には大津の会堂建築のための早天祈祷会があ った。愛光幼稚園、湖南文化学校の開設、更に会堂建築のための募金活動もあった。
このように大津教会は膳所教会に随分と迷惑をかけた。大津と膳所の聞を自転車を駆って1日に何回も往復した。草津、瀬田、田上周辺へも自転車であった。また、神学生もくたくたになってしまい、同志社の先生方はその健康を随分心配したという証言もある。
記録によれば、矢部の手によって洗礼を受けた者は膳所211人、大津106人である。その矢部の元から牧会献身者、神学者が輩出した。矢部の祈りの一つに「我が伝道の生涯において、どうか30人の伝道者を起こさしめ給え」という願いがあったが、その願いは教育者なども含めると、半ばを越えている。
湖畔伝道開始後20年、直接矢部の手によってなった教会は膳所、栗南(当時の栗太郡下回上村)の2教会、新築はこの2教会のほか大津、草津と粟津会館(伝道所兼工場労働者対象の施設)、幼稚園は聖愛、愛光、信愛、瀬田昭愛、馬場同胞の5つと粟津保育園、湖南文化学校(大津と膳所)などが出来上がっていた。
矢部は宗教教育(日曜学校とその教師養成)、農村伝道(農繁期の託児所の設置などを含む)に特にカをそそぎ、さらに刑務所伝道にも手を広げた。余談だが、刑務所を出所した人が大津の会堂守りをしたこともある(大津教会の管理舎は1972年まで存在した)。超人的ともいえるその活動には、ただただ驚くばかりであり、それを導いた神の力と、矢部の信仰と情熱を実感させられる。
兼牧は大津に中村利雄が赴任する33年(昭和8年)まで15年間続いた。矢部の伝道生活の4分の3である。
▼ 祈りの人
「幻なき民は滅ぶ」というのが矢部の口癖であったといわれるが、矢部は祈りの人であった。毎朝愛犬イチロウを連れて裏山に登り、教会員一人ひとりの名をあげて祈った。夜は夜で長い祈りの時間があったという。思うに、朝は兄島姉妹のための祈りであり、夜は自ら携わった多くの伝道・運動のためだったようだ。伝道集会、路傍伝道、農村伝道、日曜学校運動、平和運動、労働運動、廃娼運動、禁酒運動、受刑者・出所者を支える活動、湖南伝道機関紙「湖光」の編集・発行、などなど。
また、よくハガキを書く人だった。会員の一人ひとりに心のこもったハガキを出すのは勿論、行きつけの店、散髪屋さんなどにも、安否を尋ねたり近況を知らせたりして、喜ばれたり恐縮されたりしたという。教会や町の人々のことが、どんなに忙しくても頭から離れなかったのだろう。
▼ 永眠
大津との兼牧を解かれて2年後の35年(昭和10年)、8月4日の膳所教会での礼拝が最後の説教になった。17日京都府立医大病院に入院。病床にあっても、肌身離さず‘持っていた教会員のカードを繰りながら、一人ひとりの名をあげて祈り続けた。26日永眠。
その日13時すぎ、突然目を開いて「見える見える天国が」「イエス様が見える」。それから最後に「バンザーイ」と叫んだ。時に51歳。死因は胃潰瘍と余病の併発による。墓は、矢部が毎朝の祈りの場所としていた所で、彼の死が契機となってできた湖南キリスト者共同墓地の中、大津教会と膳所教会の霊安塔の丁度真ん中にある。ここに春夫人、愛犬イチロウと共に眠っている。花商岩の十字架には杉山元治郎の筆になる「己が十字架を負ひて我に従へ」。
人と人をつなげていくその歩みは、いまを生きる私達にとって大きな課題であり、また励ましでもある。